昭和四十四年一月十六日


X御理解第六十節 「おかげは受け徳、受け勝。」


 これは、おかげは受け儲けと云う風に感じるのですけれども、本当は、おかげは、徳を受けた者が勝ちだと云う風に、私は思います。まあ、これはどちらにも頂けると思うのです。

 お徳を受けて、はじめて、金光教の信者としての自覚が生まれてくるのだと思うのです。徳を受けて、はじめて頂くところのおかげ、そういうおかげが頂ける者でないとほんとうの信者とは云えないと思う、又、自覚と云うものも生まれてこないのじゃないかと思うのです。

 ない命を助かったから、金光大神が喜んで下さるのでもなければ、天地の親神様がお喜び下さると云うのでもない。六十一節にあるつきぬおかげを頂けれる信心を頂いて、はじめて、神も喜び金光大神も喜び、私共氏子も喜びと云う事になる。それには、どうしても六十節のおかげは受け徳、受け勝、徳を受けた者が、勝ちだと、徳を受けなければ、実を云うたら信心の自覚も生まれない。唯、おかげの追求であれば、よりおかげの受けられるところがあったら、そちらへ移ってしまう。これは人情です。あたりまえです。金光大神のお取りつぎのお徳によって、私共の身に徳を受けさせてもろうところから間違いのない本当のおかげが受けられる。いわば生死を通して金光大神の氏子として金光大神のお取りつぎを頂き天地の親神様の氏子としての自覚が出来ます。

 金光大神も氏子も喜びというのはお願いをして、おかげを頂いたことだけでは、喜びなさらん。この氏子はない命が助かった、助かったがそれからの信心がもし頂いただけで続かなかったら、神様が喜ばれるはずがない。勿論氏子のその時だけの喜びであって後々まで続くつきぬ喜び、つきぬおかげにはならない、ですからどうしても徳を受けさせてもらう信心にならなければいけない。

 昨日、ある教会の御信者がお参りしてみえました。まあ、ちょっと霊徳に触れていけれるタイプの人です。ですから、今、自分のいる教会では、いちいち先生と意見がくい違って、そのお広前では、つまはじきされておる現在の自分であるから、もう少しお徳のある教会で信心の稽古をしたい、修行したいと云う様な事で参ってみえたらしいのです。

 ですから、私は申しましたんですけれどもですね。これは、まあ、私と三井教会との場合も同じですが、もし、善導寺の親先生が、久留米の初代の石橋先生や、甘木の初代の安武先生の様に、大徳を受けておられた先生であったらです。現在の合楽は生まれてないですよ。もし、私が、お徳を受けておるとするならです。私は、やっぱり善導寺の先生のおかげで、お徳を受けたと云う事になるのですよ。

 ですから、本当にあなたが、身に徳を受ける為には、やはり現在のあなたの親先生のおっしゃる事を、云う事を聞きなさいと云うのじゃなかろうけれども、そこで苦しかろうけれども、そこで、本当に磨く気になり、信心の稽古をさしてもらわなければ、本当のお徳は受けられんのじゃないだろうか。

 この先生は、自分の師匠として、もの足りないから、もっといい先生の所へ行ったからと云うて徳を受けられると云うもんじゃない。と云うて、お話をしたんですけれども、徳を受けると云う事は、自分の都合よいと云う事だけが、おかげじゃない。

 自分の都合の悪いところの中に、私は、徳を受けれる元は、ひそんでおると云う事。自分の思う様にならない。そこの中にお徳を受ける道がある。だから、そこを大事にしていかなければ、今日私が云う、おかげは受け徳と云う事になってこないと思うのです。

 ですから、折角信心をさせて頂いて、おかげを受けて行かなければならんのですけれども、まず、ひとつ徳を受ける。その徳は私共の思う様にならん。その中に徳の受けられる元があると思うて、そこを大事にしていく信心にならしてもろうて、おかげは受け徳とおっしゃる。徳を受けていくおかげ、その先に、云わば、金光大神に、いつ迄も、つきぬおかげを、話にしておくとおっしゃる。金光大神がつきぬ御理解を下さる事は、その徳を受ける事の為に、たくさんの御理解、御教もあると云うていいのであり、そのところのおかげを受けて、おかげを受け勝になった時に、はじめて、いわゆる金光大神も喜び、氏子も喜びじゃと云う事になり、そこからは、絶対のもの、間違いのない、くるいのない、本当の信者としての自覚、しかもそれは、生死をとおしての自覚が出来てくると思うのです。

 今日、私は、本当の信者、いわゆるお道の信者としての自覚を作らせて頂く為には、お徳を受けなければ本当の自覚は出来ないと、云う様な事を申したかったのですが、分かったでしょうか?。よく考えて下さい。

 しかも、その徳を受けると云う事は、あそこへ行ったら、おかげが受けられる。あそこへ行ったら、信心が出来ようと云うのじゃなくて、信心が出来にくい、今あなたの頂いている教会、今、あなたが感じておられる難儀の中にこそお徳を受ける道があるんだと、申しました様に、そこを大事にしていく信心を頂いていきたいですね。どうぞ。